昭和53年02月10日 朝の御理解



 御理解 第15節
 「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。」

 真から用いるもの、真心でどうぞ用いて下さい、いうなら使うて下さい。真心から御用に立ちたい。お役に立ちたいというのが神もヒレイじゃがとこう仰る。神様のヒレイというのは神様の威と申しましょうかね。神様が生き生きとしておられるという意味なんです。どうでも皆さんのところで拝まれる神様がまず生き生きとしてみえて、皆さんの心も生き生きとしてきて、その生き生きとした心と、生き生きとした神様の御働きとが一つになってヒレイになる。
 御ヒレイを受けて、御用にお使いまわしを頂かなければならない。御ヒレイに浴しておかげを頂いて、それを真心から用いさせてもらわなければならない。此方の道は喜びに喜んで開けた道じゃから喜びには苦労はさせんと仰せられる。喜びに喜んで開けた道じゃと。だからどうしても喜びに喜んで生きていけれる生活が出来れる生活全体の中に喜びが満ち溢れてこなければなりません。それが人間の幸せでもある。その喜びに限りないおかげが伴のうてくるわけであります。
 その喜びに喜んで開ける道。喜びに喜んで頂くおかげ。そのおかげをこれは体でも財でも全ての事がですね、喜びに喜んで開けたところから神のヒレイに浴する。その浴したおかげを御用に使うて頂くならば、それこそ神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びと言った様なね。神様のお喜び頂ける日々である事になります。氏子を痛めては神は喜ばぬ。しょうことなしの御用、しょうことなしのお供え、しょうことなしのお参り。それではだから神は喜ばんと言う事になるのです。
 神様のお喜びはもういやが上にも、神様が喜びに喜んで生き生きとしておいでになる。私共の心も喜びで生き生きとしてくる。そういう生き生きとした心と心が、しかも喜びでそういう満ち溢れる心がね。神様のお喜びと言う事になります。よく皆さんが神様に喜んで頂くような信心をさせて下さいというのは、そういう信心をいうのです。この事をまた御無理申し上げんならんからお参りするというのは、何とはなしにじゅつない感じですよ。金光様の御信心はもうどこまでもそうです
 。信心がお道の信心が分かれば分かるほどね、生活全体が喜びに満ち溢れてこなければならない。昨日ある方達が、親子三人でお参りになられた。その方達が頂いた御理解の中に、その方の姑親になられる方の三十五年か、の丁度式年に当りますけれども、お道の信心に一家中がなっていませんから、こちらで御霊様に御挨拶をして頂きたいというて、その方と里の御両親と三人で遠方から参ってきました。
 自分は体が大変に不自由なんです。もうようあんな体でここまでも電車に乗ったりバスに乗ったりしてお参りが出来るもんだと思うくらい体が不自由なんです。その方の御主人のお父さん、いうなら姑親のいうなら御霊様の式年祭という形ばったもんではないですけれども心から御霊様にしたいというのです。それで昨日は丁度光昭が正奉仕でしたから、あの人が一時の御祈念に合わせておかげを頂きました。
 それで私はここから御祈念をさせて頂いとりましたら頂きます事が「山」あの商標に、山とか金とかいうね、金桝とかいう、私の方は桝屋でしたけど、私共は桝屋という屋号でしたが金桝でした。と言う様に山を書いて商標によくあるでしょう。山何と言った様な、それに山丸。山にまんまるい輪がいうならば商標ですかね、看板と言う様なのを頂いた。こう言う様な形で頂いた。
 まあ現在その体の上にいろんな意味合いで、まあ言うなら普通から見たら難儀な事じゃなあという事になりましょう。まあだ若いんですけどね、体が自由にならんというだけでもね、大変な事ですし、またその両親になられる方もいろんな意味で難儀を抱えておられる両親なんです。それで本当にこの世の難儀は私が一人でと言う様な思いでね、自分の不幸、自分の苦労を苦労と見たらおかげにはならん、いやおかげにはなってもそれはお徳にならん、だからその難儀こそが看板なんだね。
 遠方から体の不自由なのに、それこそバス一つ乗るでも人の手をちょっと借らなければ乗られんような体の状態でね、それはいうならば難儀の看板のようなものだけれども、自分自身の心の中にはです、それを修行と頂くという事ですね。それを修行と頂くと言う事が看板。おかげで誰も出来ない言うなら修行をさせて頂く。それが看板なんです。どうしてこんなに苦労が続くだろうか。
 どうしてこんなに、ま不自由の事ばっかりなのだろうかと、それこそ神仏になっとん頼まねばというので信心するのでは、只苦しいからその苦しい事から逃れ出ようとする事だけ、けどもそれをね、それを修行として受ける。難儀であればある程不自由であればある程、今日も結構な修行をさせて頂いたという、その観点が変わってくる。難儀に対するね。そういう修行にならせて頂いたら難儀から逃れるのでなくて、難儀の方がですね、逃げ出していく外れていくという御理解でした。
 最近もう私が毎日繰り返しいっている事はね、家業こそ道の修行だと言う事なんです。家業こそ道の修行だと。もうこの生き方になったらね、もう日勝り月勝りの必ずおかげが受けられる。日勝り月勝り年勝りのおかげが受けられる。それに日参の修行、教えを頂くおかげを頂いたら、もう必ず代勝りのおかげになってくる。代勝りというのは、自分の代より子供の代より孫の代という、これはもうお徳の世界。
 お互いが本当に日々をです、日勝り月勝りのね年勝りにおかげを頂いて行く為には、今持っておる難儀を難儀とせずにそれを修行として頂く。自分の頂いている仕事に楽な仕事はありはしません。だからこげなきつい仕事といわずに、それを尊いもうお道の信心はそれに極まっているんです。水をかぶったり断食をしたりと言った様な修行ではなくて心行一本。家業をそのまま行として頂く、もうその修行に極まっているんです。
 ですから家業そのものを修行として、今日もよい体がそれこそきつかればきつい程、沢山の仕事をさせて頂いたら頂いた程それは儲かるとか、儲からないとか損とか、得とかといった問題でなく修行なんだから、今日も結構な修行をさせて頂いたと御礼のいえれる内容なんです。だからどうでもその家業そのものが行であり、今持っておるところの難儀そのものが行なんだ、修行なんだ。
 その持っておる難儀から逃れたい、逃れたいという、おかげを頂きたい、おかげを頂きたいというのであっては、よしおかげは頂いてもです、本当の事にならないのです。おかげを頂いてもまた次におかげというものが、繰り返し繰り返しいつまでたってもね、そこから難儀というものが逃げ出さない。難儀というものは、いつもただ一時押さえのおかげを頂いただけではつまらんでしょう。
 日勝り月勝りにならなければね。だからねもう無理にでも良いから、今日も一日どうぞ修行させて下さいというて仕事に取り組まなければいけない。体が悪いなら体の悪いその事をです、今日一日修行として受けさして頂きますという、言うならば心の状態でおかげを頂かなければならない。今日の御理解でいうと、真から用いると言う事。ああ今日またこんな仕事せんならんと言う事は真から用いる事にはなりません。
 勇みに勇んで今日もこの仕事そのものを修行として頂きますという生き方、生き生きとした生き方こそ、神様へ言うなら真心から自分の体全体を、力の持っている限りの力を用いた事になる。神様に使うて頂いた事になる。修行させて頂いた事になる、だから神の喜びという事になる。神の喜びがお徳にもなればおかげにもなってくるんですね。そういう段取りというかね。それが金光様の御信心なんです。
 だからもう本当にもう目が覚めたらもう修行が始まっているんだと、その辺のところをここでは心行とこういわれます。子供でもなそうと思えばなせるような事を、もう朝から蹴やるような事をする。もうよかよかで済ます。これではもう初めから間違いね。そのところを心行をもって、その一日のあらゆる事柄に取り組ませてもろうて、それを家業こそ道の修行なのですからね。
 今日一日体を用いる、今日一日神様へ捧げるね。お広前に持ってこんならんという事ではない。お広前で御用する事だけが用いるのじゃない。自分の家庭で商売なり、お百姓なり、それぞれの持っておる家業そのものを修行、そのままが修行。もうそれなら絶対日勝り月勝り年勝りになるんだ。私はもうなるはずだと思うですね。生き生きとして日々の御用が出来るなら、神様へ用いる事。
 ああ今日もまた損の、上塗りのごたる仕事をせんならん。今日もまたこの山のごと積んである仕事をと、もう初めからへこたれたようなね、言うならば難儀であり、それを言うならば苦労としたんではね、本当にこの世は苦の世苦の世界になってしまいます。この方の道はもう喜びに喜んで開けた道じゃからと仰るね。喜びに喜んで開けた道じゃから、喜びじゃ苦労はさせんというおかげがある。それは神様の喜びだから、神様の喜びが私共に反映してくる。
 昨日箱崎教会の佐田先生のところの若いご信者が時々参ってくる。大変な難儀な問題を抱えておる。先日御祈念中に頂いた事が、あれは正教さん控えておるかね。昨日箱崎の。これから賀おかげになる。これから和おかげになると頂いたそうです。どう言う事と思うですか。ああこれからおかげになるばいのと、そう言うこっちゃないです。これから賀というのは賀正の賀、和賀心の賀です賀正の賀。これから和おかげになるというのは、和の心、平和の和です。
 それを平仮名でずうっと頂いて、その賀のところと和のところに、漢字で賀とタイトルがついとった。いや素晴らしい事だねといった事でした。そして私はこの御理解を頂いた方のすぐ後でしたから、この山に丸という字の、とにかくあなたが持っておる、その苦労がね一つの看板になるのだよと、あの人はあんな大変な難儀をしござったが、金光様の信心によってあげなおかげを頂きなさった。ああ言うお徳を受けなさったという、看板にならにゃいかんね。
 だから是からおかげになりますよ、是から有難い事になりますよじゃなくて、是から賀、いうなら是から賀、もうすべて喜んで受けていけよと、賀正の賀で是から和というのは、いよいよどういう場合であっても和の心を崩すなよと、悲観したり悲しんだりするなよと分かれば分かる程、ああこれが御神願である神愛である。いよいよこの成り行きそのものを尊び、大事にさせて頂く事は、神様の働きそのものを大事にする事だと分からせて頂いて、そういう和の心、賀の心で取り組ませて頂くというのである。
 賀び和らぐ心でとね。皆さん心によう控えておいて下さい。これから和おかげになる。これからおかげにならせてもらう。これからおかげを頂こうと思うなら、どうでもこの和の心を求めていかにゃならん、賀の心を求めていかねばならない。もう一日が喜びで生き生きとしてこなければならない。どうしても喜びが湧かん時にはです、それ程言うならばきついというか大きな修行させて頂いておると頂かねばならない。今日はきつかった、きつかったで終わっちゃならん。
 もう今日も本当にへとへとする程にお使い回しを頂いて有難い、真心から用いる、お使い回しを頂く。用いて神様から用いて頂いた、神様から使うて頂いたと言う事になるのです。昨日私研修の時に、昨日はまた中村徹美君からはがきがこうやって毎日来るのです。でこれを読んでね、皆にこういういうならば生き方、こういう修行の取り組み方を頂かなければいけないと言う事です。読んでみましょう。親先生日々有難うございます。川之石教会では合楽と同じく二食で美味しく頂けます。
 お風呂も二日に一度、とても有難いです。昨日の夕食は私におかずを作らせて下さいました。焼肉をしました。家族の皆さん美味しい、美味しいというてとても喜んで下さいました。この様に恵まれた、いやおん恵みのと書いてある。御恵みを受けておる在籍教会外実習での一日一日が親先生のおかばいの深さが身にしみます。こちらでの御用は一日のうちほとんどが御結界奉仕です。取次者の命ともなる御結界で御用を頂き、 勉強させて下さろうとする神様の働き、ご都合親神様の願いを感じずにはおられません。本当に有難うございます合掌。
 二食であることも、お風呂沸かしをさせて頂くことも、炊事の御用させて頂く事も、これを見とってもう有難うして有難うしてこたえん。神様が育てずにはおかんという働きをそこに実感しておる。親先生のおかばいの中で、こういう修行が出来ておると言う事が、これに感じられるでしょう。だからうちの修行生の方達にですたい。あなた方の修行がね、もう本当に男に炊事の手伝いさせたり、どしたり廊下拭いたり掃除てんなんてんな、とかでなくて、もうとにかく食事がここと同じ二食らしい。
 その二食のことが有難い。風呂も一日置きにしかない、それが有難いね。何もかにも有難い、有難い。神様が育てずにはおかんという働きをそこに実感すると書いとりますね。日々の言うなら家業の行がです、こういう生き生きとした言うならば受け止め方、いうならば取り組み方がなされなければいけないと言う事です。神様が育てずにはおかんという働きを感ずる日々でなからなければいけない。それは山に丸と言う様な修行であっても、神様がお徳を与えずにはおかん、力を与えずにはおかん。
 氏子幸せにせずにはおかんという働きがね、そこに感じられる。そこにです中村徹美君の場合にはね、それを神様が育てずにはおかんという働きと受け止めておるところが素晴らしいのです。そういう働きがですね、私どもにはあるんです。受け取っておるんです。昨日研修の時に一人一人が発表します。それに私は岩部先生にあんたは昨日、久留米の共励会に行ったそうだが何人もの人がもう初めて岩部先生のあんな有難い話を頂いた。もう大変おかげを頂いたというお届けがいくらもあったんです。
 だからどげな話をすりゃ皆があげん喜ぶとじゃろうか、どげな話をしたのというてから私が聞きました。そしたら自分は黙っとりましたけど、末永先生が実はこういう話をされましたというて、末永先生が岩部先生の話の全てではないけれども、まあ取りまとめて研修の時に発表しておりました。先生は皆さんも御本部参拝をする時に、ご承知でしょうけれどもあの御本部の手前に里庄というところがありますね。
 もう大変大きな丁度ここと同じように教会として認められないで、永年言うなら難儀があった教会なんです。そこの教会のもう親からの信心なんです。そこの親先生が亡くなられる時の遺言にです、岩部家から一人お道の教師になさねばいけないという遺言をなさっとったそうです。だから当然息子であるところの岩部哲典先生がお道の教師にならなければ、それは子供の時からそれを言われとっただから。たまたま里庄の若先生が私の方の若先生と学院が同期だった。
 そんな関係で若先生を通して合楽と言う事、当時は椛目ですね、の話を聞いておった。何か同じような難儀を抱えておる教会同志ですから、まだ当時金光教神愛会といっておった時代です。ですから何とはなしに心ひかれるものがあって、そして道の教師を、高校を卒業したら、早速学院に行かねばならないような、雰囲気になってきた。ところが自分はどうしてもその、金光様の先生になろうごとない。先代がそれで遺言してある。親はそのつもりでおる。
 けれどもそれに反発をして、あの大阪に何か仕事を求めて出たというのです。それで親がとにかくお道の教師になろうと思ったから、そげなこと言うちからと大阪に行くてんなんてん止めて、お道の教師になってくれ、学院に行ってくれというて頼んだけれどもそれを断った。強引にそれに反発した。そんならとにかくお教会に行ってあんたが大阪に行くなら大阪に行くことだけを、お届けだけはしていってくれというのでまあ形ばかり、そして大阪に行くことをお届けしてまあ大阪へ発ったというのです。
 所が乗せて頂いた急行がね、金光の駅まで行ったげなら動かんごとなったげな。私はそこば聞く時にね、本当胸がドキドキしました。ズンズンする思いがしましたですね。神様の働きというか急行に乗ったその急行が、何か汽車の故障だったんでしょうよ、金光から動かんごとなった。そこで降りん訳にはいかんごとなった。降りてそれこそ奥城に出て、それこそ日頃それこそ扉が出ておりますよね。あの扉を打ち叩きながらね、私はお道の教師になんか私はならんてね、というて教祖様に直談判をしたと言う事です。
 それからまたその次の汽車で大阪に行った訳でしょう。どこと当てがある訳じゃないから、まあ一応ブラブラしよったところがガソリンスタンドに人が求めてある。そこへ入ったら快う雇ってもらった。そこが金光様の御信者じゃないけれど何か信仰されて、もう金光様の先生の言われる様な事をそこの人がいわれる。そして後で気が付いたことは、ちょっとすぐ近所に難波教会があったげな。大阪教会。もうどうにもできん、神様が手かせ足かせしてござって止められる。
 そしてそこへまあいろんな問題が起こりましてね、そこにもおれなくなって、もう仕方がないから家に帰らなければならない。家に帰ると言う事もそんな訳で家を出とるから、出来んから結局行くところは教会であったというわけなんです。それから学院行きをしたというのですね。そうしてたまたま竹内正教先生と同期であった。一番初めに学院生が感想を一人一人述べなければならなかった。
 そしたら竹内先生がもう一番にお道の教師をさせて頂くならばお徳を頂かなければ自他共に助かることは出来ん、僕はお徳を頂くためならどんな修行でもいといませんということが一番じゃった。変わったことをいう人だなと思っていたらそれが合楽の修行生であった。それから非常に竹内先生に感化を受けたというかね。ある時に神様に夢とも御神願とも分からんけれどもお知らせを頂いて、当時の椛目から光が出ておる。それが日本全土に光がパーと行き渡っておるところを頂いた。
 もうその時から椛目神愛会。当時の神愛会、現在の合楽、合楽と言う事が頭から離れなかった。親先生が亡くなられて、若先生がいうなら教学派の先生らしいですから自分の修行するところではないというて竹内先生を通して、合楽で修行させて頂くことを願って今日に至っておるという話をね、もうそれこそ自分のどうでもお道の教師にならずにはおられないというか、なさずにはおかんというか、そういう働きの中に自分が今日合楽で修行しておるという話をしたんだそうです。
 神様がね御用に使うて下さる。神様が用いて下さる。だから用いずにはおられない。そういう働きに便乗せずにはおられない働きというものが、私どもの周辺にはいつも影形には見えなくてもそういう働きがあっておると言う事が、言うならば金光様の御信心を頂いた、ご縁を頂い、合楽にご縁を頂いたというからにはです、愈々神様人を求め給うのでありますから、どういう人を求め給うかというと、本気でその気でいうなら真心から用いて下さい、神様の手にも足にもならせて下さいと言う様な人を求め給うのです。
 その人がその人として自分がその自覚が出来た時に、神の喜びと言う事になるのじゃないでしょうかね。真から用いるのは神のヒレイじゃがと言う事はお供えと言った事ではありません。だけではありません。私共がいうならば体を用いて頂く。神様が体を使うて下さる。神様の手にも足にも使うて下さろうとする働きを私共は感じ取らせて頂く。そこから本当の意味においての家業の行と言う事が、本当のことになってくるのじゃないでしょうか。私の仕事じゃない、神様のお仕事。
 それをいうならば御用させて頂くのですから、御用が私用に一つ足らないね。御用がおん用でなからねばならないのに、私の用になってくる。私用になる。これが普通一般なんです。私のための仕事なんです。それを神様を中心にしたところのそれが御用です。それがお百姓をさせて頂いとっても神様の御用なんです。お商売しとってもそうなんです。神様の御用なんです。だから使うて頂く事がいうならば大きければ大きいだけ大きい修行が出来ると言う事になるのです。
 だから今日もそういう修行に取り組ませて貰う。今日もそういう修行をさせて頂くと言う事になるね。その修行そのものがいうなら看板になる。これ賀おかげになる。これから和おかげになる。賀と和がそこから生まれてくる訳です。自分の用であったら所謂お商売で言うなら、儲かった時にはうれしい、けれども損をしたらね苦しいばっかり。それが修行であるならばです、損得はもう別です。
 家業こそいよいよお道の修行なのですから。その修行にいよいよ取り組ませて頂くと言う事がです真心からいうならこの体全体が用に用いられたことになるのじゃないでしょうか。そういう中から喜びに喜んで開ける道が、思いもかけない収穫となったり、収入になってくる訳でしょう。そういう思いもかけない喜びに集まってくる収穫であり収入がです、ならお供えという形になる時にです、神のヒレイで、神のヒレイに浴して出来たものですからそれに喜びが伴わないはずがない。
 そういう御用ならば神様が喜んでくださる。寄進勧化をしては神は喜ばないというのが金光教の建前なんです。だから御ヒレイに浴してその御ヒレイに浴せれる姿勢というものが神様が御用に使うて下さる。いよいよ神様が勉強させて下さろうとする働き。その難儀をですよ、その難儀なら難儀をですよ、たとへば風呂沸かしをしたり、炊事の手伝いをしたり、御結界の奉仕をしたり、お掃除をしたり、場合には教会長先生の代理でどこどこ教会にお使いに行ったり、その前の日はそんなだった。
 その全てをです自分に勉強をさせて下さろうとする、神の働きと頂く時にです自分も有難い。たとへばこの徹美君の手紙を見よってです、自分も楽しゅして、有難うしてこたえんだろう、けれども先生も喜んでござろうごたる。家族の人達も大変喜んでござろうごたる感じがあるですねこの中に。自他共にいうなら楽しめる喜べる生き方。それをですいうならば家業の行としてまた、それを修行として頂いていくおかげ、そこにいうなら日勝り月勝り年勝りのおかげが約束される。
 そういう信心をです、どうでも身につけたい。よく心の耳を澄まさせてもらうとです、岩部先生のそれじゃないけれども神様がね、そういう信者にお取り立てを下さろうする働きを聞くことが出来ます。それを自分の心に頂きとめることが出来ます。だから神様に用いて頂くと言う事が有難いと言う事になる。してあげるのじゃない、用いられるのである。神のヒレイに浴すると言う事、そこからいうなら本当の家業の行としての頂き方が出来ると言う事であります。
 今日は十五節から煎じ詰めますとです、いよいよお道の信心は家業の行に極まった。家業そのものを行とするのだ。それをいよいよ垢抜けをする、いよいよ本当のことにしていく事のために日参という修行があり、聴教、教えを頂くという修行がある。今日も一日をです、いよいよ家業を行としての頂き止め方の出来れる一日でありたい。例えば皆さんが難儀を持っておるなら、その難儀があなたのところの商標になり、看板になる位な一つおかげを頂きたいですね。
   どうぞ。